落ちない染みは糧となる

 

舞台「染、色」
原作・脚本 加藤シゲアキ
演出 瀬戸山美咲
主演 正門良規

 

一度全公演中止の難を経て、無事東京・大阪公演を終えることができたこと、心から嬉しく思います。

 

東京公演の後に一度出した考察を、配信後に加筆・修正したものです。

 

それでは、加藤担による極私的ライナーノーツ

これは舞台「染、色」の考察であり加藤シゲアキの考察です。

 

 

 

 

秋に咲いた桜

 

10月に咲いたソメイヨシノ

「間違えて秋に咲いちゃったんだね。秋に咲いちゃった桜って次の年の春も咲けるのかなぁ。」

北見が語る桜のエピソードについてずっと引きずる深馬。

このセリフの意味が気になって仕方なくて。

 

秋に咲いた不時の桜は
次の春も咲けるのだろうか

NEWS LIVE TOUR 2016 QUARTETTO 加藤シゲアキソロ曲『星の王子さま』より

 

実際に秋にソメイヨシノが咲いた事例はあった。当時のニュースでは、勘違いして、間違えて咲いてしまった、と言われている。

「秋に間違えて咲いちゃった桜」=「人々が畏怖さえ覚える( 原作で美優*1の幼少期の落書きを見て市村*2が慄く場面がある、舞台では深馬が杏奈の家で突然描き出すところ )深馬の才能がたまたま入学試験の時に発揮された」

「次の春も咲けるか」= 「 他人と何ら変わりのないフッツーの人生 ( 真未のセリフ )」

これに対する答えとして、舞台の最後、白い衣装に身を纏う真未と舞い散る桜の花びら

そして季節は春。ということは春に桜は咲けた( と思いたい )。

 

瞳の話


深馬が自分の作品を壊した後、真未と深馬が交わる、そして2人で絵を描く、最後にスプレーで横一線に引いた後それが白黒の瞳になるシーン。深馬の衣装も黒に変わり、音楽も相まって非常に不気味であり、このあたりから深馬が本格的に狂っていく感じがした。

なぜ瞳?

ここで星の王子さまをもう一度もってくる。
児童書は大人になったときこそ読んだ方がいいと思う、定期。人間の真髄に迫るような重〜〜い教えが散りばめられてる気がする。

大切なものは目に見えない

そう、目、瞳。
大人になってしまった私たちの目は、正しいものを正しいと判断できないこともあるし、目に映るものを全て真実だと思ってはいけなかったり。あとは人の目ばっかり気にしてしまったりね。

 

服の色とスプレーの染み

 

深馬と真未の服は場面に合わせて変わっている。

[深馬]ベージュ→黒→グレー→ベージュ

ベースはベージュ、自分の作品を壊したあたりで真っ黒の衣装に、真未の「深馬の望むことこれからも私が全部してあげる。そうすれば君は何にだってなれるんだよ。」を拒んだ後グレーに、真未のいない生活に戻りベージュに。

[真未]黒→白

ベースは黒、最後深馬と離れ真っ白のワンピースを纏う。

 

大学生という若くてまだ何にも染まっていない深馬に真未は染みをつけていく。

「汚してるかあ。どちらかというと洗ってる。」

 一般的に綺麗にする、白くするというイメージのある「洗う」という言葉をここで選択することに違和感しか覚えない真未のセリフ。けれどまっさらなキャンバスに色を足していくことは必ずしも汚すことではない。他人から汚されることのない無垢な存在である自分自身を自らの手で染めることを彼女は洗うと表現したのだと思う。そうやって私たちは大人になっていく。

しかし深馬は本当にこのままで良いのか。深馬の腕を染めるスプレーの色は白→黄→ピンク→青と段々と濃くなり、最終的に黒く染められた深馬は、決して自分自身の手で染めたわけではない。あくまで理想郷に逃避しているだけ、それは深馬もわかっていた、だからこそ最後は自分の意思で、自分の手で染みを拭き取り再びベージュの衣装に戻る。

 

深馬と真未

 

2人の関係、それは、

真未は実体を伴わない深馬の一部のようで全く別のもの、深馬は真未であり、真未は深馬だった。

真未は深馬の理想の具現化であり、2人が過ごした時間は一種の白昼夢を見ていたに近い。深馬は今まで恵まれた人生を送ってきたが大学に入り、いざ大人になる段階で高い壁にぶつかる。壁を乗り越えるための転機となったのが今回の一連の話というわけで。

 

色褪せてもなお、彼女の色は刺青のように身体中に深く刻まれている。なあ、そうだろう美優。 

 加藤シゲアキ著作「傘を持たない蟻たちは」所収『染色』より

 原作で印象的だったこのセリフ、舞台でも登場したあたり、この話の核であるのかなあと。きっと真未はこれまでも、これからも、ずっと深馬の中で生き続けていく。真未の存在というのは深馬にとってなくてはならない、なりたい自分であり、戒めであり、救いである。

 

総まとめ、加藤シゲアキという人

 

理想の自分、なりたい自分
日々自分の不甲斐なさを惨めに感じたり、他人の期待に押し潰されそうになったり。全てがうまくいくわけではないし、どんなに頑張ったからって必ずしも理想の自分になれるわけではなくて。そんな絶望を抱き締めながら私たちは今を生きていかなければならない。


「深馬が頼んだんだよ」と毎回言う真未に対して「俺は頼んで無い」と否定する深馬は自分が持たざる者であることに気付きたくない。渇望することを人は恥ずかしいと感じ、諦観することでそれを誤魔化す。どこかで憧れを諦めきれない自分を認めたくない。

スプレーを取り上げられて泣く真未のような、欲しいものを欲しいといえる無邪気な心は大人になった今でも私たちの心の中に絶対あるのに、それを私たち大人は見て見ぬふりをして、自分の気持ちに蓋をして、つい周りに合わせて生きてしまうよね。

 

加藤シゲアキ著作たちの芯はいつもここにある気がする。「傘をもたない蟻たちは」の『染色』を読んだ時、加藤シゲアキをいっちゃんに重ねて読んだなぁ。。才能や自分ではどうしようもない部分への未練を恥ずかしいと思う、一歩引いて俯瞰することでそれらを隠しているところに若い頃の加藤シゲアキを投影させる。だからこそ深馬を演じる正門くんが加藤シゲアキに似てるって言われちゃうのかもしれないね。

 

BitterもいつしかGood tasteになる

ならこどものままで僕はかまわぬ

 NEWS LIVE TOUR 2016 QUARTETTO 加藤シゲアキソロ曲『星の王子さま』より

学生時代、私たちが子どもでいられる時間、そして2度と訪れることのない時間。苦いと思っていたものがいつの日にか美味しいと感じられる日がやってくる。たくさんの葛藤と嫌な記憶を経て、時には大切なものを不要と切り捨てて、そうやって私たちは大人になっていく。ずっと子どものままでいたい、なんて誰もが一度は空に願うようなことを加藤シゲアキは願い、今も心の片隅で思っているのかもしれない。

 

「可能性が広がっている時って一方で閉じていく可能性もあるんだよね」

この原田のセリフがとても印象的で、これを生み出す過程というかバックグラウンドを考えた時少しだけ心が苦しくなった。大人になったはずの加藤シゲアキは乗り越えなくて良い壁にいくつもぶつかって、しなくてもいい辛い思いをたくさんしてきて、計り知れないほどの絶望に染められて。

「どれだけあがいても最後のかたちはもう決まっている」

本当にそうかな。

できないことが怖いから、大人は自分の限界を決めて、逃げ道を作る。最後のかたちを決めたのは自分自身。変えられるのも自分しかいない。私にとって、加藤シゲアキは自らの生き様をもってそれを体現し伝えてくれる大切な存在

私が常々彼みたいな大人になりたいと思っている一つの要因は、大人らしくない、泥臭い部分を惜しみなく見せてくれるところにある。日々新しい世界に飛び込んでいく加藤シゲアキを見ていると、窮屈だと思っていた大人が、なんだか、全く別の可能性を秘めているものに感じられる。最高にワクワクするんだよ

 


原作の方が加藤シゲアキの生々しさが存分に発揮されていた気がする。著作たちは皆 加藤シゲアキの闇の部分、生きていく上で救われない、どうしようもない部分が描かれている印象であり、今回の舞台では割と綺麗に収まっていて驚いた。瀬戸山さん、すごい。しかし舞台の包まれるような温かさは、たくさんの現実と向き合い、痛みに耐えてきた今の加藤シゲアキにしか創り出せないものであって、私が生きる現実に差す一筋の光は確実に彼なんだと思う。

 

 

あとがき

このお話をロマンチックだなぁと言う加藤シゲアキを私は改めて変態だと思いました。こんな脚本を書いて正門担に嫌われないかなぁといささか不安ではありましたが、想像以上にファンの皆様が暖かくて、本当に素敵な空間でした(誰目線?)。

再演できて本当に良かった、またどこかで加藤シゲアキが創る世界に行きたいと願う日々です。

 

p.s.呼び方迷ったんですけど、どれもしっくりこなくてフルネームに落ち着きました...。加藤シゲアキゲシュタルト崩壊を起こしかけました。本望です。

 

f:id:Pupu___zZ:20210713025459j:plain

 

 

 

*1:舞台では真未

*2:舞台では深馬