『なれのはて』感想

 全443ページ、その厚みと重みに一瞬躊躇い、そして読み始める。が、何度か立ち止まっては息を吐く。本の重さを軽々と凌駕してしまうほどの内容の重厚感に圧倒され、読み終わるまでにかなり時間がかかってしまった。現在と過去を繋げ、何人もの登場人物が複雑に絡み合い、それぞれに抱えるものがあり、戦争・空襲・家族・贈賄・隠ぺい・発達障害・恋愛・ジェンダーetc...今こそ考えるべき社会問題がところせましと一冊に詰め込まれている。こんなものと、彼は3年もの間向き合っていたという事実にしばし茫然とする。前作の『オルタネート』、その軽やかで瑞々しい青春群像劇を書きあげておきながらの今作、ギャップがえげつない。

 本当に書きたいもの、自分が読みたいものを追求したことがひしひしと伝わる文面にふと笑みがこぼれてしまう。正直言って、テーマを詰め込みすぎているようには感じたし、そのせいで掘り下げが足りない部分もしばしば。それらをまとめるために後半にかけてご都合主義に感じてしまうことも。過去と現在が交錯する中で、登場人物も多いことが相まって混乱してしまったり。(私の頭が足りないのかも。。)しかし必ずしも洗練された作品ではないところに彼の魅力を感じている私にとっては願ったり叶ったりだったりもする。特に今作は(前作より顕著になっていたけれど)作家としての成熟度が文章と構成どちらにも強く表れており、内容の重さをカバーするような、読み手をぐいぐい引っ張っていく力があった。書き手の筆がのるように、後半につれ加速する勢いに身をゆだねる、この楽しさこそ私にとっての本を読む醍醐味だったりもする

 

善悪で白黒はっきりつけられるわけではないですよね。そういうグラデーション、マーブルみたいなものを、僕は小説で描きたいと思っています。小説とは、答えではなく「問い」なんです。

 インタビューで度々口にする「グラデーション」という言葉を頭の中で反芻する。世の中の全ての事象は事実として1か0で表現することができる。一方で、真実は人の数だけ存在してしまう。正しさが必ずしも一つとは限らないのに、人々はその便利さから一つ残らず善悪を振り分けようとする。誰かにとっての正義は、別の人を傷つけかねないのに。

 

正しさは振りかざすための矛ではない。他者を守るための盾である。(『なれのはて』より)

 人にとって「知ること」が意味することは一体何なのか、今作を読んで初めて自分に問う機会を得た。私にとって「知への探求心」は誇るべきものであったし、事実をつまびらかにすることは正義だと信じていた。ドラマでよく「事実を知ったとき、あなたは今よりもっと辛い思いをするかもしれない」なんてセリフをよく聞くけれど、結局は明らかにしてハッピーエンドに繋がるように、知らないままでは本当の幸福は訪れないと思っていたし、「知っている人」と「知らない人」との間ではその後の成長の幅には計り知れない差があると思い込んでいた。

 物語の最後では、とうとう道生の罪は明かされないかった。それが正しかったのかどうかは誰も知ることができない。けれど、「知ること」が必ずしも「幸福」には繋がらない。私たちは普段何の疑いもなく、「知ること」「善意」「愛」「努力」が「幸福」に繋がると思っている。それが正しいことだと信じ込んでいる危うさに気づけたことは大きな収穫だった。

 陰と陽、善と悪、矛と盾、相反する真実があふれかえる世界において生きていかなくてはならない人間の難しさに頭を悩ませる。それでも世界には確実に希望の光があることを彼の作品から伝えられる。一見マイナスの意味にしか捉えられない「なれのはて」というタイトルに、不思議と読後救いを見出してしまう。これからも自分のことを見失わずに清濁併せのんで強く生きていきたいなと、なんだかいっつも重くなっちゃうなーと反省しながら、これで終わり。

 

 

奇跡の裏側に主役の後ろ姿を見る

舞台「エドモン~『シラノ・ド・ベルジュラック』を書いた男~」

 

作:アレクシス・ミシャリク 台本・演出:マキノノゾミ

主演:加藤シゲアキ

 

2023/4/1-4/16 @新国立劇場 中劇場

2023/4/22-4/24 @東大阪市文化創造館

 

<あらすじ>

1897年12月、パリ。2年も書けずに大スランプに陥っている詩人で劇作家のエドモン・ロスタン。ある日突然、大女優サラ・ベルナールからの大きな仕事が舞い込み、偉大な喜劇王コクランに英雄的なコメディ詩劇の新作を書くことを約束してしまう。なんと初日は3週間後!
ムッシュ・オノレのカフェで、構想を練るが、まったく書けない……。衣裳係のジャンヌに恋する友人の俳優レオの恋愛相談に乗り、訳あり主演女優とプロデューサー兄弟の気まぐれに振り回され、妻ローズに怒られ、ありとあらゆるトラブルに見舞われながら、舞台監督のリュシアンやコクランの息子ジャンたちと稽古をはじめるが……。
エドモン・ロスタンの人生をかけた一世一代の創作、そのタイトルは……
そう……『シラノ・ド・ベルジュラック』!!!

エドモン | PARCO STAGE -パルコステージ- より引用

 

 

 

 

 

 舞台「エドモン」初日の幕が上がる時、何だかいつもより心がどきどきしてた。舞台の幕が上がるまでの物語を描いたこのお話とリンクするように、舞台「エドモン」もまたドタバタな裏側が存在したのかと思うと微笑ましくて、わくわくしてたまらなかったから。

 これからどんなお芝居を見せてくれるんだろう、今度はどんな世界に私を連れ出してくれるんだろう、なんて考えながら、幕が上がる瞬間のあの胸の高鳴りは何にも代え難くて。

 

 

 

 

 

 ここ2年の間、「モダンボーイズ」をはじめ「染、色」(担当不在)、「粛々と運針」と連続して3つの舞台を見に行って、なんというか、重たい話ばかりだったから(それも勿論好きなんだけど)、「エドモン」を見終わった後、純粋に「あ~楽しかった!笑った笑った!」って劇場を出てこられたの、とても良かったな


 テンポ良く飛び出す台詞たち、次々とキャラを変えながら登場する個性豊かでチャーミングなキャストの方々、そして舞台上でずっとアワアワ駆け回っている主役のエドモン
 場面転換の多いこと、多いこと。とにかく早すぎて、次から次へと飛び出す台詞の大洪水に何度も置いていかれそうになったり。
 キャストの皆様はもっと大変なんだろうと思う、早着替えから舞台のセット移動まで、本当に、カーテンコールで出てきた人の少なさに毎度しっかり驚かされた。それでいてひとりひとり全くの別人に見えるからこれまたすごくて。ちなみに私の中で最後に結び付いたのは[リュシアン]と[ジョルジュ・フェドー]、あれは気付かんて〜〜〜^_^;

 パンフレットに書いてあったマキノさんの「総員エドモン状態!」ってフレーズに思わずクスッとしちゃったけれど、大げさに見えてこれがリアルなのかも、ひとつのものを創り上げるってそれだけ大変で、それほど凄いことなんだろうな。
 ドタバタコメディではあるんだけれどもそれでいてハートフルさもあって、舞台を見ているとき、大きな愛に包まれている感覚になるの、私だけじゃないと思うんだよね。

 

 

 

 

 

 内容は舞台の作り手たちにフォーカスを当てた「シラノ・ド・ベルジュラック」誕生秘話。舞台の裏側を支える劇作家や演者たちの様子を見れる機会なんて中々無いから、新鮮で面白かったなぁ。生みの苦労が見ている側にとっては生みの楽しさになってしまうっていう何とも皮肉なお話、、

 主人公エドモン・ロスタンが戯曲の完成に向かって執筆に奮闘するんだけれども、友人や女優、プロデューサーに振り回され、妻の嫉妬に追われ、そもそも本人は大スランプ中で。

 けれどそんな状況下でも、ただ振り回されているだけじゃなくて、エドモンを取り巻く人々や次々と起こるハプニングが上手く戯曲に影響を与えていく、その様が見事で、現実世界と戯曲の内容がどんどんリンクしていく瞬間にひたすらワクワクしながら見入っちゃってた。

 

 

 

 どのキャラクターも愛らしくて大好きだけど、特に黒人店主[オノレ]がお気に入り。エドモンがシラノを思いつくきっかけになったシーンはもちろん、たまに挟まれる酒場のシーンでのオノレの粋な台詞がこの舞台に欠かせないスパイスを加えてくれてる感じがして。

『たった一つだけ分け隔てなく隣り合って座れる場所がある、それが劇場です』
『俳優が芝居を辞める時は死んだ時だけだ』

 黒人であるが故に多くの苦労をしてきた彼の言葉は力強くて、それでいて優しくて繊細で。


 エドモンとオノレが巧みに言葉を操る様子とそこから生み出されるウィットの効いた言葉たちについ惚れ惚れしてしまう。詩人の詩人たる所以、口にする言葉たちはどれをとってもロマンチックで、知性に満ち溢れている。たしかに、ジャンヌもロクサーヌも外見ではなく中身ってなってしまう理由がわかるな、それが性格とかではなくて「言葉」ってのがまた斬新で良いよね。その人の語彙で、その人の文章の組み立て方で、人となりを知る。そう考えると小説家って作家自身をさらけ出してるというか、本を読む時同時に作家自身を読んでいる面もあるのかなぁなんて考えたり。

 

 

 

 

 そして一生納得できないエドモン二股問題!いくら傑作を生みだす過程だとしても、ジャンヌもローズも現実を生きているひとりの人間なのに。
 ドタバタコメディ!綺麗にハーピーエンド!みたいにしているけれども、エドモンはひたすら戯曲のためにジャンヌを利用して存在しない感情を作り出し、それが遂にはジャンヌの方に感情が生まれてしまい、行き場のないジャンヌの恋心とローズの嫉妬。そしてレオの気持ちも。

『ジャンヌはミューズ、着想を得るためであってそれは愛じゃない』
『君の美しさや心を強く求める心がここにあればこそ、僕は1人きりで立ち向かえる』
『大事なのは求める気持ちそのものだ、その気持ちが満たされてしまったら追及はたちまち終わってしまう』

 随分勝手なことを言ってくれるじゃん、ローズが放った「私はもう若くもないし魅力的でもないから詩が浮かばないのよね」の言葉、どんな気持ちだったか想像もできないのかな、それに対して悪びれた様子なく普通に肯定しちゃうエドモン、そういうところがずっと引っかかってた。

 結局最後までエドモンを愛せなかったのは、その残酷さを私が許せなかったから。

 コクランに『浮気で裁かれるのは肉体であって精神でなはい』だなんて言われながらも最後きっちり拒まずキスしてましたね、そこからローズに愛しているのは君だけなんてよく言えるなって。それを受け入れてしまうローズもジャンヌも理解できなくて。ずっとモヤモヤしてた。

 レオが「シラノ・ド・ベルジュラック」のクリスチャンを演じながら『俺は俺自身で愛されたい。そうでないならまるっきり相手にされない方がよっぽどいい』って舞台裏にいるエドモンの目を見ながら言ってたの凄く刺さった。普通はそうなんだよ、誰かが間に入るだなんて、うまくいったらそれでオッケーだなんて、絶対思えない。

 

 類い稀なる才能には誰もが惹かれてしまうし、それを目の前にした時は誰しもひれ伏してしまうものなのかな、なんだかな。フランス人が愛を愛するが故の行動ならば私が理解できないのも仕方ない、、のか、、?


 シラノの幕が下りて、『もう一回舞台に立って欲しい』と引き留めるエドモンと気にも留めず行ってしまうジャンヌのシーンに少し救われた。エドモンもまた唯一無二の才能を目の当たりにしてしまったのよね。

 

 

 

 

 舞台を創り上げる人のひとりひとりに、それぞれが舞台に対する想いがあって、譲れない情熱があって、みんな身勝手で厚かましくて。でもそこまでしてこそ完成した舞台が素晴らしいものになるんだろうな。舞台を創る人たちって本当に強いんだなって。

 このお話がどこまで事実に忠実なのかはわからないけど、たくさんの苦労と人々の想いが詰まって舞台やエンタメが成り立っていると思うとまた舞台に足を運びたくなるなぁ(終わったばかりなのにね、寂し~)。


 観客の笑い声、割れんばかりの拍手、終わらないカーテンコール

 最後エドモンがみんなに呼ばれてカーテンコールに応えるその後ろ姿に他にはない感動が全て詰まってた。たくさんの困難を経て初日に上がった幕が下りた時、この瞬間がある限り、つくる側も、観客側も舞台というものを求めてしまうんだろうな、と。

 この奇跡のような初日があったからこそ、世界中に愛される舞台として今日まで舞台が上演され続けているわけだけど、実際はどんな舞台も奇跡で、舞台は「奇跡が起こる場所」なんだよね。


 映画やドラマと違って、演劇は舞台の幕が下りるまで何が起こるかわからない。ハプニングだって起こるし、その日その公演でしか見れないものがある。だからこそ10年後、100年後も舞台はなくならないし、人々に愛され続ける。そう私は確信してるからこそ、自信を持って書いて書いて書きまくって欲しいし、初日の幕が上がる瞬間にいつも立ち合わせて欲しいんだよ、エドモンくん

 

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私なりの糸の結び方を探しながら

舞台『粛々と運針』

作:横山拓也 演出:ウォーリー木下

主演:加藤シゲアキ

 

2022/3/8-3/27 @PARCO劇場

2022/4/8-4/10 @森ノ宮ピロティホール

 


 <あらすじ>

築野家。一(はじめ)は弟・紘(つなぐ)と二人で母を見舞う。病室で母から紹介されたのは、「金沢さん」という初対面の初老の紳士。父が死んだあと、親しい仲らしい。膵臓ガンを告知された母は、金沢さんと相談の結果、穏やかに最期を迎えることを選んだという。まだ治療の可能性はあるのに。
 田熊家。平均寿命くらいまで支払いを続けたら自分のものになる小さな一軒家を去年購入した沙都子と應介。その家のどこかで子猫の鳴き声がする。早く助けてあげたいけど、交通事故で頸椎を痛めた應介はケガを理由に探してくれない。そしてお腹に新しい命を宿しているかもしれない沙都子は不思議なことにこの話の切り出し方が分からない・・・。
 平凡な生活の内に潜む二つの家の葛藤を、周到な会話で縫い合わせるように描き出す命の物語。

粛々と運針 | PARCO STAGE -パルコステージ- より引用

 

 

 

このご時世、カンパニーの誰一人が欠けることなく、東京、大阪公演と最後まで駆け抜けられたこと、どれだけ稀有なことか。『モダンボーイズ』の無念が少しは晴らせたかな、ほんとーーーーーーーーーーーに、少しね。(私情)

 

 

始まりから圧倒される舞台美術から音楽から演者の衣装まで。なんというか、ものすごく意外で。小さなギャラリーから始まったこの作品は、演者が椅子に座りながら紡がれる会話たちによって進行される、日常におけるささやかな物語。今回かなりのスケールアップとはいえ、良い意味で質素な舞台になるのだろうなと想像していたもんだから、出だしのディジュリドゥとパーカッションにそんな心構えのようなものを全部もってかれた。衣装も本当に素敵。ちょっとおしゃべりすぎるぐらいの衣装の方が、私は好き。

後ろの映像がすべてドットで描かれていたのが印象的で、まるでわたしたちを創り上げる細胞ひとつひとつみたいだった。赤と青の対比も鮮やかで、これは衣装にも言えることだけれど、赤=血の色、肉の色、太陽が連想され、力強く生と明るさの象徴。対する青=空や海の色、知的で穏やかな印象を受ける、平和のシンボル。リアルな物語と対称的な、抽象的で神秘的な空気に終始包まれていた。

 

 

内容は非常に普遍的でわたしたちの日常にも溢れていること。

「生命」の終わりと「生命」の始まりに葛藤するふたつの家族の物語。

 

結「こうやって。生き生きと暮らしている人たちの下に、命は埋まってる。」

 

桜が美しく咲き続けるために、何かを成し遂げるには何かしら、誰かしらの犠牲が必要で。知らず知らずに生きている当たり前の日常にも、自分以外の「生」が存在している。それは必ずしも実際の「死」を伴うわけではなくて、例えばコロナ禍における医療従事者の働きが「命」を燃やして人々の生活を支えている、ということにも当てはまると思う。

 

結「じゃあさ、桜の木。何年花を咲かせ続けたら納得する?」

結「でもね、変な話。そういう手もあるんだなって今になったら思う。」

 

すごくドキっとした。「尊厳死」という選択をした結が、もし、私自身の親や祖父母だったら、私はそれを認めることはできるのかな。沙都子や紘が言うみたいに、身内の命を客観的に見てみるなんて、絶対無理だ。ましてや一(はじめ)はずっと一緒に暮らしてきたんだから。たしかに、そこにあるのは結への愛だけではなくて、自分への愛かもしれないけれど。

 

沙都子「應くんと結婚したことは私の意志やし。それで、仕事も続けて、すきなことして、二人で人生謳歌するって決めたやん。」

 

これは私がすごく好きなセリフ。めーっちゃ素敵。専業主夫になったらあかんかな、って応える應介も素敵。でも産むのはどうしたって沙都子だから、難しい。

結婚も、その先の生き方も、なんなら死に方も、自分の意思で選べるけれど、産まれることって唯一選択できないよねって考えたり。

 

沙都子「私は、私の人生守らなアカンもん。」「私の命はどうなるん。」「人生やんか。命の果たし方やん。私だけの、命の。」

 

「生」命 と 人「生」

病院に行くのに歩いていったらダメ、とかそんな知識も無い状態で産んで欲しい、一緒に育てようなんて言われたら腹が立つよね。子供ひとりを産んで育てきる自信が無いことも、夫婦ふたりだけの理想的な生活を続けていきたい望みも、それぞれの事情を他人が決めつけるように否定したら、それは、そんな悲しいことないだろうな。私はまだ学生で、結婚も出産も全部が身近ではなくて、それでも沙都子と由加の気持ちを想っては、胸が苦しくて苦しくてたまらなかった。どうして、女性だから諦めなければいけないんだろうね。いつまでたっても変わらない社会の構造に深く絶望する、何て無駄な時間。

 

紘「もうアニキが解放してやらないと。」「最後まで、アニキの『お母さん』のままだよ。」

 

子を持つ幸せと、母という役割のまま生き続けることは全く別物で、生涯を通して、ひとりの人間として他者から認識されることは必要だと思う。けれども、人は支えあって生きているわけで、常にだれかにとっての何者かで、その役割から逃げることってできないのかもしれない。それでも結は尊厳死を選択することで、自分の人生としての結末を迎えようとした。

 

紘「俺も…。俺のお母さんなんだよ。」

 

紘もひとりの人間なんだもんね、と安心できた瞬間。幼い頃から父親と長男である一(はじめ)に振り回されて、無理やり大人になるしかなくて、弟や子であることを諦めて生きてきた。もっとわがまま言いたかっただろうに、甘えたかっただろうに、子である自分を最後まで奥の奥の方に仕舞い込んで、結の生き方を尊重してあげる姿を見ては少しもどかしさを感じて、抱きしめてあげたくなる。お兄ちゃんホントしっかりしてくれよ…()

 

 

 

ひとつの時間軸で、同じ舞台上で、物語が進行していく中で、後半にかけて別々の問題を抱えるふたつの家族が交じり合っていく様があまりに自然で、鮮やかだった。しかし一方で、現実はそうもうまくいかないという事実も突き付けられた。誰も間違っていない、全部が正論。だからこそどうしようもなく、でもどうにかするしかなくて。

「わかんない」「わからん」

みんなが度々口にする。考えを放棄しているわけではなくて、本当に。

わかんないよね、わかんないんだよ。

こんなに大きな出来事があったとしても、4人の結末は私たちの想像の範疇を超えることはない。人ってそんな簡単に変われないし、そんな綺麗な解決策が用意されていないのが現実だから。

 

けれども、

最後に真っ白な衣装を纏って現れた結は、自分なりの結末を迎えられたのだろうし、

動き出した柱時計の針は一(はじめ)の止まっていた時を進め、

木の下に何も埋まっていなくても、桜は綺麗に咲いたのだろうと思う。そう信じたい。

 

 

粛々と進む時計の針は、無情に、時に優しく背中を押してくれる。

 

選択ばかりのこの人生において、今後の数々の分岐点でこの物語を思い出すだろう。垂れ下がるたくさんの糸に絡まりながら、人生という意味での命と向き合いながら、

私は、私なりの糸の結び方をこれからも探し続けていきたい。

これが私の人生でした、って言えるように。

 

 

 

 

 

◎初演作HP

www.iaku.jp

 

◎当時の戯曲をそのまま観れたりします、保存用

youtu.be

私たちは『不要不急』に生かされている

舞台「モダンボーイズ」

主演:加藤シゲアキ

4/3-4/16 @新国立劇場 中劇場

stage.parco.jp

 

想いが風化しないために、一年前の記憶を必死に必死に掘り起こして、ここに残そうと思います。本当は、本人の口から思いを聞いて、ファンからのメッセージを聞いて、それで私の中のモダンボーイズを終わらせたかったんだけど、なかなかうまくいかないみたいで

 

憎きコロナ、けれど、コロナ禍だからこそ、こんなにも私の記憶に残る舞台になったのかもしれないと思うと、今まで見えてこなかった部分、当たり前ではないことを身を持って知れる良い機会になっているんだろうな。我慢我慢の連続の この日々にいつか終止符を打てるといいよね。近い未来にね。

 

 

今でも鮮明に思い出す、舞台上で真っ白なタキシードに身を包み 歌って踊るエフリィは、本当に美しくて輝いていて、束の間の夢を見ている気分だった。

私もいつかあの劇場の一等席でレビューを見たい、そう強く思わせられた そんな舞台で、生きにくい時代に必死にもがきながらも懸命に何かを伝えようとする姿は今の時代にも通じるんだなぁって。

 

「今こそ上演されるべき作品」と加藤さんが言っていた その意味を舞台期間を終えてようやく理解した気がする。コロナ禍で不要不急と言われるエンターテイメントは本当に不要なのか

2020年2月25日、本当に本当の滑り込みで行ってきたPerfumeの東京ドームでのコンサートを未練がましく引きずってしまう。翌日は全国ツアーのオーラス、彼女らは中止という重い決断をした。

あの日を境にライブの形は変わってしまった。次々と中止になるライブ、4人の集大成であったSTORYも、もちろん。半分も埋まらない客席、マスクにフェイスシールド、彼らの声に応えられないもどかしさ、頭のどこかで持ち続ける不安を抱えながら、もう2年が経ってしまった。

 

共存のためには譲歩し合わなければならない。頭ではわかっていても、マスクやフェイスシールド越しではないお互いの顔を見ながら、想いを言葉にしながら、ステージの上に立つ彼らと、客席に立つ私たちでつくりあげる あの白昼夢みたいな時間に、私はどうしても恋焦がれてしまう。

 

私はエンターテイメントが持つ計り知れない力を知っているから、コロナ禍の『不要不急』という謳い文句にすごくもどかしさを感じていて

わかってる、わかってるよ、一番大事なのはみんなが健康に 安心して暮らせる日々が保障されている未来だってことぐらい。エンタメなんてたかが娯楽、贅沢品、無くたってもちろん誰も死ぬことはない。

でも、たくさんの人が命を燃やして創り上げるエンタメから、私は命を貰っている、『不要不急』なものに日々生かされている。

 

 

確実に言えることは、あのタイミングで、モダンボーイズという素晴らしい舞台を加藤シゲアキ主演で見れたこと、これがどれだけ私の力になったかということで、毎日頑張って生きようと思えるのは彼らが与えてくれるエンターテイメントのおかげなんだよ、と声を大にして言いたい。

 

「私は加藤シゲアキと出会えて、幸いでした」

 

 

www.youtube.com

 

 

 

重ならないその手を包み込むは私でありたい

 

 

シンメトリー:[名・形動]左右相称の意。物体もしくは美的対象の構成が中心軸をめぐってその色、形、性質が左右または上下に同形に配置され、両者が均整、相称な関係にあること。対称性。

 

コヤシゲの出会いから20周年、なんともおめでたい。

 

ちなみに私は現在20歳、そう、コヤシゲ爆誕と共に私も爆誕していたわけで、わお。

私がのんきにおぎゃあと泣いてる時にも彼らは切磋琢磨しながら支え合って生きていたんだよねぇ、20年って 長い。

 

出会って20年、シンメとして、1番近い位置で互いを見てきた2人

気付けば30歳を越え、NEWSは3人になった。

そんな今もコヤシゲは変わらない

運命共同体

この関係性は不変だと思う、思ってる。

 

正直に言います、加藤シゲアキはめんどくさい男です、それもかなり。

そして小山さんは本当に優しくて、いくつになっても無邪気。

 

そんな2人をくっつけて、共に歩ませようとしたジャニ―さんはやっぱり天才か。小山さんの方が入所自体は遅いとはいえ、幼い彼らにとっての3歳差って大きいよね。当時成亮少年は人見知りで先輩に可愛がられる方ではなかったみたいだし、そんな中で年上の、しかも全く違うタイプの人と組んでこれからずっとやっていくんだよって中々想像つかないな。心配ご無用、すぐ仲良くなったみたいだけどね。

 

成亮少年は何でも持っている方で、それ故に自信家でプライドが高かった。だからこそ、ジャニーズという何でも持っている人たちの中に放り込まれて、人前に立たされた瞬間、世間において自分の相対的な評価の低さを目の当たりにして、人一倍傷ついてしまったんじゃないかな。NEWSを組んだ後も歌割りやポジションで、強制的に理解させられる、本当に残酷。コンプレックスを抱えながらも、どうにかして現実から目を逸らしたい彼は次第に自虐的な発言が増え、いつしか期待をしなくなっていた。やったるぞ!って言って達成できなかったら恥ずかしいから、いや、別に俺はどうでもよかったし、って。でも本当は羨ましいの、かわいくねー奴!

そんな成亮少年を変えてくれたのは紛れもない小山さんの存在だと思う。急に年下とシンメ組まされて、しかもその相手は辛気臭いしめんどくさいし、でも小山さんは全部を受け止めてそれでいて面白がってくれた。どうせ俺は選ばれた人じゃないんだ、ってふてくされる成亮少年に向かって「えーそう?シゲがそう言うんなら別にいいけど、俺はシゲのいいところ沢山知ってるけどなぁ」(妄想)って軽く言っちゃいそう。

 

 

(という勝手なイメージ、あの、最初に言った通り20年しか生きておらず、同じ時代を共に過ごしてないので、過去記事やどこかで目にしたオタクの呟きなどが私の中の当時を形成しています、悪しからず)

 

 

NEWSが6人から4人になるとき、どこに行っても「NEWSの」加藤成亮と名乗ってはいけないあの時期に、テゴマスとコヤシゲが違うことを、わかっていたはずなのにご丁寧に突きつけられた。NEWSは解散?テゴマスは存続?じゃあコヤシゲは...?先が全く見えない暗闇の中で、不安と焦燥感、悔しさ、たくさんの気持ちを抱えるには若すぎるよ。この時期2人は相当苦しんで、でも何かできないかって事務所に直接掛け合った上で厳しいことも言われて。

なんていうか、テゴマスは良きライバルで、お互いに高めあえる関係。それに対してコヤシゲは馴れ合いというか、安心感を得られる逃げ場に見えた。それも見透かされてたのかもしれないね、っていうのは多分考えすぎ。

はあ、当時にタイムスリップして2人を包み込んであげたい、よしよし、君たちは頑張っているよ。

 

 

そして20年経った今、2人は大人になって、更に素敵な関係性になったね。もうお互いが依存し合わなくても、慰め合わなくても、自分から前を向いて歩いて行けるような、強さを手に入れたから。

これからの未来も、歩く先で隣にいてほしい、そんな絶対的な関係が続いていってほしい。まあそんな心配しなくても、小山慶一郎はコヤマウントを多方面にとりながら愛をしれっと語っていくだろうし、その隣で加藤シゲアキは満更でもない顔をして笑っているんだろうな。お互いの結婚式でしっかり泣いてる姿まで想像できる。やばい、素敵すぎて泣けてきた。私にも参列させろ。

 

 

長々と書いてきたけど、ライバルでも親友でもないコヤシゲの関係が私は大好きで、2人が顔を合わせて笑い合う姿をずっと、この先も、見ていたい。ただそれだけ。2人の幸せを邪魔する奴なんて現れた日には私が直接はったおしにいくからな。

 

 

 

 

そしてこの機会にコヤシゲ表紙を再びくださったTVガイドAlpha様、心よりお礼申し上げます。この世に新たなコヤシゲを放って下さり、誠にありがとうございます...。

また是非呼んでください。

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落ちない染みは糧となる

 

舞台「染、色」
原作・脚本 加藤シゲアキ
演出 瀬戸山美咲
主演 正門良規

 

一度全公演中止の難を経て、無事東京・大阪公演を終えることができたこと、心から嬉しく思います。

 

東京公演の後に一度出した考察を、配信後に加筆・修正したものです。

 

それでは、加藤担による極私的ライナーノーツ

これは舞台「染、色」の考察であり加藤シゲアキの考察です。

 

 

 

 

秋に咲いた桜

 

10月に咲いたソメイヨシノ

「間違えて秋に咲いちゃったんだね。秋に咲いちゃった桜って次の年の春も咲けるのかなぁ。」

北見が語る桜のエピソードについてずっと引きずる深馬。

このセリフの意味が気になって仕方なくて。

 

秋に咲いた不時の桜は
次の春も咲けるのだろうか

NEWS LIVE TOUR 2016 QUARTETTO 加藤シゲアキソロ曲『星の王子さま』より

 

実際に秋にソメイヨシノが咲いた事例はあった。当時のニュースでは、勘違いして、間違えて咲いてしまった、と言われている。

「秋に間違えて咲いちゃった桜」=「人々が畏怖さえ覚える( 原作で美優*1の幼少期の落書きを見て市村*2が慄く場面がある、舞台では深馬が杏奈の家で突然描き出すところ )深馬の才能がたまたま入学試験の時に発揮された」

「次の春も咲けるか」= 「 他人と何ら変わりのないフッツーの人生 ( 真未のセリフ )」

これに対する答えとして、舞台の最後、白い衣装に身を纏う真未と舞い散る桜の花びら

そして季節は春。ということは春に桜は咲けた( と思いたい )。

 

瞳の話


深馬が自分の作品を壊した後、真未と深馬が交わる、そして2人で絵を描く、最後にスプレーで横一線に引いた後それが白黒の瞳になるシーン。深馬の衣装も黒に変わり、音楽も相まって非常に不気味であり、このあたりから深馬が本格的に狂っていく感じがした。

なぜ瞳?

ここで星の王子さまをもう一度もってくる。
児童書は大人になったときこそ読んだ方がいいと思う、定期。人間の真髄に迫るような重〜〜い教えが散りばめられてる気がする。

大切なものは目に見えない

そう、目、瞳。
大人になってしまった私たちの目は、正しいものを正しいと判断できないこともあるし、目に映るものを全て真実だと思ってはいけなかったり。あとは人の目ばっかり気にしてしまったりね。

 

服の色とスプレーの染み

 

深馬と真未の服は場面に合わせて変わっている。

[深馬]ベージュ→黒→グレー→ベージュ

ベースはベージュ、自分の作品を壊したあたりで真っ黒の衣装に、真未の「深馬の望むことこれからも私が全部してあげる。そうすれば君は何にだってなれるんだよ。」を拒んだ後グレーに、真未のいない生活に戻りベージュに。

[真未]黒→白

ベースは黒、最後深馬と離れ真っ白のワンピースを纏う。

 

大学生という若くてまだ何にも染まっていない深馬に真未は染みをつけていく。

「汚してるかあ。どちらかというと洗ってる。」

 一般的に綺麗にする、白くするというイメージのある「洗う」という言葉をここで選択することに違和感しか覚えない真未のセリフ。けれどまっさらなキャンバスに色を足していくことは必ずしも汚すことではない。他人から汚されることのない無垢な存在である自分自身を自らの手で染めることを彼女は洗うと表現したのだと思う。そうやって私たちは大人になっていく。

しかし深馬は本当にこのままで良いのか。深馬の腕を染めるスプレーの色は白→黄→ピンク→青と段々と濃くなり、最終的に黒く染められた深馬は、決して自分自身の手で染めたわけではない。あくまで理想郷に逃避しているだけ、それは深馬もわかっていた、だからこそ最後は自分の意思で、自分の手で染みを拭き取り再びベージュの衣装に戻る。

 

深馬と真未

 

2人の関係、それは、

真未は実体を伴わない深馬の一部のようで全く別のもの、深馬は真未であり、真未は深馬だった。

真未は深馬の理想の具現化であり、2人が過ごした時間は一種の白昼夢を見ていたに近い。深馬は今まで恵まれた人生を送ってきたが大学に入り、いざ大人になる段階で高い壁にぶつかる。壁を乗り越えるための転機となったのが今回の一連の話というわけで。

 

色褪せてもなお、彼女の色は刺青のように身体中に深く刻まれている。なあ、そうだろう美優。 

 加藤シゲアキ著作「傘を持たない蟻たちは」所収『染色』より

 原作で印象的だったこのセリフ、舞台でも登場したあたり、この話の核であるのかなあと。きっと真未はこれまでも、これからも、ずっと深馬の中で生き続けていく。真未の存在というのは深馬にとってなくてはならない、なりたい自分であり、戒めであり、救いである。

 

総まとめ、加藤シゲアキという人

 

理想の自分、なりたい自分
日々自分の不甲斐なさを惨めに感じたり、他人の期待に押し潰されそうになったり。全てがうまくいくわけではないし、どんなに頑張ったからって必ずしも理想の自分になれるわけではなくて。そんな絶望を抱き締めながら私たちは今を生きていかなければならない。


「深馬が頼んだんだよ」と毎回言う真未に対して「俺は頼んで無い」と否定する深馬は自分が持たざる者であることに気付きたくない。渇望することを人は恥ずかしいと感じ、諦観することでそれを誤魔化す。どこかで憧れを諦めきれない自分を認めたくない。

スプレーを取り上げられて泣く真未のような、欲しいものを欲しいといえる無邪気な心は大人になった今でも私たちの心の中に絶対あるのに、それを私たち大人は見て見ぬふりをして、自分の気持ちに蓋をして、つい周りに合わせて生きてしまうよね。

 

加藤シゲアキ著作たちの芯はいつもここにある気がする。「傘をもたない蟻たちは」の『染色』を読んだ時、加藤シゲアキをいっちゃんに重ねて読んだなぁ。。才能や自分ではどうしようもない部分への未練を恥ずかしいと思う、一歩引いて俯瞰することでそれらを隠しているところに若い頃の加藤シゲアキを投影させる。だからこそ深馬を演じる正門くんが加藤シゲアキに似てるって言われちゃうのかもしれないね。

 

BitterもいつしかGood tasteになる

ならこどものままで僕はかまわぬ

 NEWS LIVE TOUR 2016 QUARTETTO 加藤シゲアキソロ曲『星の王子さま』より

学生時代、私たちが子どもでいられる時間、そして2度と訪れることのない時間。苦いと思っていたものがいつの日にか美味しいと感じられる日がやってくる。たくさんの葛藤と嫌な記憶を経て、時には大切なものを不要と切り捨てて、そうやって私たちは大人になっていく。ずっと子どものままでいたい、なんて誰もが一度は空に願うようなことを加藤シゲアキは願い、今も心の片隅で思っているのかもしれない。

 

「可能性が広がっている時って一方で閉じていく可能性もあるんだよね」

この原田のセリフがとても印象的で、これを生み出す過程というかバックグラウンドを考えた時少しだけ心が苦しくなった。大人になったはずの加藤シゲアキは乗り越えなくて良い壁にいくつもぶつかって、しなくてもいい辛い思いをたくさんしてきて、計り知れないほどの絶望に染められて。

「どれだけあがいても最後のかたちはもう決まっている」

本当にそうかな。

できないことが怖いから、大人は自分の限界を決めて、逃げ道を作る。最後のかたちを決めたのは自分自身。変えられるのも自分しかいない。私にとって、加藤シゲアキは自らの生き様をもってそれを体現し伝えてくれる大切な存在

私が常々彼みたいな大人になりたいと思っている一つの要因は、大人らしくない、泥臭い部分を惜しみなく見せてくれるところにある。日々新しい世界に飛び込んでいく加藤シゲアキを見ていると、窮屈だと思っていた大人が、なんだか、全く別の可能性を秘めているものに感じられる。最高にワクワクするんだよ

 


原作の方が加藤シゲアキの生々しさが存分に発揮されていた気がする。著作たちは皆 加藤シゲアキの闇の部分、生きていく上で救われない、どうしようもない部分が描かれている印象であり、今回の舞台では割と綺麗に収まっていて驚いた。瀬戸山さん、すごい。しかし舞台の包まれるような温かさは、たくさんの現実と向き合い、痛みに耐えてきた今の加藤シゲアキにしか創り出せないものであって、私が生きる現実に差す一筋の光は確実に彼なんだと思う。

 

 

あとがき

このお話をロマンチックだなぁと言う加藤シゲアキを私は改めて変態だと思いました。こんな脚本を書いて正門担に嫌われないかなぁといささか不安ではありましたが、想像以上にファンの皆様が暖かくて、本当に素敵な空間でした(誰目線?)。

再演できて本当に良かった、またどこかで加藤シゲアキが創る世界に行きたいと願う日々です。

 

p.s.呼び方迷ったんですけど、どれもしっくりこなくてフルネームに落ち着きました...。加藤シゲアキゲシュタルト崩壊を起こしかけました。本望です。

 

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*1:舞台では真未

*2:舞台では深馬